近くて遠い国=USA

▼地域のニュースから

「池子住宅建設問題で逗子市 国への訴訟案発表」との見出し。(1日、東京新聞横浜版)
横浜市域側への追加住宅建設計画で、国を相手に民事訴訟を起こすとのこと。横浜市の中田市長も小泉首相や石破防衛庁長官に「住宅の増設戸数削減と返還施設の追加」を要請。
要は国の「追加建設はしない」という約束違反に市が反旗を翻した形になったわけだが、その背景にはやはり「米軍住宅が何故建設されるのか」という思惑があると思う。前にも述べたが、池子地区はまさに住宅建設問題の歴史そのものである。国は住民の声を思いはかるべきだろう。360万人都市の代表である横浜市長の声も無視はできないはずでる。

先般、池子住宅に事前手続きを済ませて入ってみた。表向きは遺跡資料館見学という目的であったが、もちろん本音は別にあった。案内人によると、あの9・11のテロ以前は誰でも自由に中に入れたという。迷彩服を着て監視に立っていた軍の人間が「ID?」と訊いてきたので運転免許証を出したが、目が厳しいのは当然と言えば当然か。
歩いてみるとかなり広い。まだ手を入れてない森を含めて、池子地区は逗子市の14%を占めると案内人が話していた。割合としても大きいと方だとは思うが、その中にいる米軍の人間がどのくらい住んでいるのかによって一人当たりの占める面積が対比できるだろう。想像するに周りの住民一人の占める割合のほうが小さい。
これではやっかみも起きようというものだ。もっとも面積の問題ではないのだが。


▼日本にとって米国とは何か

米軍がらみの問題は何も池子だけではない。日米安保がある以上、米軍は日本に基地を作って、その周辺で生活することができる。米軍基地は全国どこにだって存在する。そして人が生きてゆく以上は、当然いろいろなことが起こりうる。不満も要求も発生する。事故や事件も起きる。
実際に池子住宅は米軍の要求だろうし、米軍兵士による事故や事件はあとを絶たない。婦女暴行事件、ヘリや飛行機の墜落事故、夜間飛行訓練などなど。
問題はそうしたことの処理に対して日本は口を出すことができないことにある。おまけにカネは日本が出す。まさに前近代的治外法権状態にある。
国=中央政府は、こうした状態にフタをしてなおも米国追随姿勢を改めようとしない。地方の知事や市長がこれだけオカシイですよと言っているにもかかわらず、耳を貸そうとしない。
防衛の問題となると、国家予算や憲法の問題が絡むので、ここではさておくが、「戦争になったら米軍が日本を守ってくれる」という考え方は懐疑的になったほうがいいと思う。仮にそうなったとしても、上記の事故や事件を相殺すべきではない。それとこれは別問題である。日本で生活している以上は、日本も口を出す、現場検証に関わる、というような国として当然の姿勢を米国に示して欲しいものである。
あれだけ素晴らしい映画・音楽を作る文化や科学技術を持っている、世界から尊敬されている頭脳者集団の国のはずである。そのような国が何故「稚拙」な行動をとるのか不思議でしかたがない。

招かれざる客

睡眠時無呼吸症候群
実は8月始めに健康診断を受けたときに医師にその疑いがあると言われた。今年に入って、何故か昼間眠くなりがちで、体がややだるくなっていることを話した。自分ではただの寝不足や運動不足や食生活の偏りから来ているものだと思っていた。もちろん、これだけ不養生な生活を送っていれば、体もおかしくなろうというものであるが、まさかそんな大げさな病名を告げられるとは思ってもみなかった。大体、サラリーマンの大半は日常的にストレスを抱えているものだし、皆、似たような生活を送っているものである。
思わず、「えっ?」と我が耳を疑ったが、医師は「最近流行していますね」とも言う。そう言えば、新聞を読んでいてもこの言葉が目に入ってくることが多くなっているようにも感じる。
ちなみに、睡眠時無呼吸症候群とはこれほどわかりやすい病名もないだろう、文字通り読んで字の如くである。寝ているときに呼吸がない状態のことをいう。もちろん、全く呼吸がないと死んでいるのと同じなわけで、そうではなく、無呼吸状態が何度かあるという症状のことだ。断続的に起きているとはいえ、ちょっと恐い。
では、何故このようなことが起こるか。「家庭の医学」などで調べてみたが、先述のような不養生な生活はもちろん、身体的不調(痛み、かゆみ、せき、頻尿、怪我)とか、睡眠にとっての不都合な環境(明るさ、騒がしさ)、睡眠・覚醒リズムの変調(夜更かし、爆睡、寝不足、時差ぼけ)などが挙げられるという。
では、睡眠時無呼吸症候群になるとどうなるか。昼間に耐えがたい眠りに襲われる、夜寝ているときは無呼吸の他に大いびきをかく症状が見られるそうである。
確かに昼間仕事をしているときにどうしようもなく睡魔がやってくるときがある。そうなったら、席を立って体操したり、コーヒーを飲んだり、栄養ドリンクを飲むようにして眠気を払っている。電車に乗って座ると、もうグーグーである。
もしかすると骨折が拍車をかけたのだろうか、最近に限ってもどうもオカシイ。医師は検査をすすめたが、ここはひとつ検査してもらおうと思っている。ただの疲労であればいいのだが、大変なことにならないうちに検査入院しなくてはと焦っている。
インフルエンザにかかったり、骨折したり・・・何か悪魔にとりつかれているのだろうかと疑心暗鬼になる。詳しくは知らないけれど、確か男の厄年は42歳だよな?それとも何かの試練を与えられているのだろうか?

三位一体改革

この課題にはずっと関心を持ってきた。19日に全国知事会が「補助金削減案決定」をまとめたところで、個人的に思うところをすこし述べたい。
やはり多くの知事が削減に賛成しているように、自分も知事であればそうするだろう。
今回は補助金改革。義務教育費国庫負担金、施設整備費補助金など合わせて約3.2兆円の削減、そして同規模の金額の税源移譲を国に求めたものである。
そのうちの目玉は、多く報道されてきたように、義務教育国庫負担金を廃止するのかしないのかということである。廃止反対を唱える知事などの論拠となっているのが、「地域格差」で、長野など7県が反対ということであった。東京の石原慎太郎知事は反対から賛成へまわる。
確かに地域の財政的な差によって教育の内容に差が出てくるのは問題である。しかし、現在の成熟社会における小中学校の義務教育で、心配する程差が出てくるものだろうか。それに今回の義務教育費というのは、後述するように中学校教職員給与についての話である。自分の感想ではあるが、ちょっと上段に構えすぎの感がしないでもない。
しかし、ことは教育に関する問題の根幹にかかわるものだから慎重に進めて欲しい。文科省財務省族議員などが反対しているらしい。ここまできたら、既に国民、市民を巻き込んだ社会問題だろう。
それでも地方にとっては中央集権の束縛から離れる機会なので、知事会はさらに頑張って欲しいし、今回のことで地方から政府に案を出すことは意義のあることだと思う。
全国知事会HP(http://www.nga.gr.jp/)の更新が楽しみだ。



★削減内容

義務教育費国庫負担金→8500億
  中学校教職員給与
施設整備費補助金→6000億
  廃棄物処理施設整備費・公立学校施設整備費・社会福祉施設整備費など
公共事業費→6000億
  河川改修費・砂防事業費など
その他→1,2兆
  児童保護費・小規模企業等活性化補助金など

身の振り方

20日報道ステーションで、元民主党代議士であった山本譲司氏(41?)の存在を知る。

彼は政策秘書給与の詐欺という政治家にありがちな犯罪を犯して、懲役433日の実刑を受けた。その獄中(栃木県黒羽刑務所)で見て感じたことを「獄窓記」として著したという。
機会があれば読んでみたいと思う。
TVのドキュメンタリーで障害(知的、精神、肢体)を持つ受刑者の世話係として従事し、価値観に変化があったことを述べていた。糞尿で異臭のする知的障害者の部屋で清掃もした。山本氏より年上の知的障害者が「あのね、僕、お母さんを蹴ったら死んじゃった」との言っていたのも聞いたとも語る。
そして最終的に山本氏は、この人たちが刑を終えて刑務所を出たらどうなるのだろうと思い、彼らのためにシェルターを作りたいと明るく話していた。
今現在は福祉施設知的障害者などの世話や介護をしているということであるが、かつて政界のホープと呼ばれていた人間にこういうことが出来るのかと驚いてしまった。シェルターの話にしても立派過ぎるくらい立派だ。
もう国会に戻るつもりもないと断言していた。「美談」と皮肉を言う者も現れる向きもしないではないが、やはりここは素直に「偉い」と思いたい。受け入れる心が広いとはこのことを言うのではないだろうか。
これまた辻元清美氏とは考え方が違うなとも思った。

大岡川とうろう流し

yuzai2004-08-16

16日、仕事帰りに大岡川でのとうろう流しを見に行く。

この行事があると知ったのはつい最近のことで、たまたま上大岡の街を歩いていたときにポスターが貼ってあったのを発見した。その写真を見て、これは行かなくてはと思った。
15日夜7時開始で笹野橋下から最戸橋の下を流れる大岡川でとうろう流しが行なわれるとのこと。しかし、昨日は雨のため順延、今日になったというわけだ。
会社を足早に出て大岡川に着いたのが7時30分過ぎ。商店街を抜けて青木橋に行くと、すでに見物人で賑やかになっていた。橋の上から川を見下ろすと、ろうそくに火を灯したとうろうが川の流れに合わせてゆったりと流れている。ろうそくを和紙(?)で囲んであるのがいかにも日本的で幻想的だ。実際のろうそくのとうろうは記憶する限り初めて見る。長崎の精霊流しと同じだと思った。いくつかのとうろうが流れているのを見ていると、しばし時を忘れる。夜の帳と妙にマッチしていて心地が良い。癒しになる。
橋を降りて、川面の近くへ顔を寄せてみる。紙に文が書いてあった。「生活苦しいけど何とかやってるよ」とか「子供達は大きくなりました。いつまでも見守っていて下さい」などなど。先祖へのメッセージである。
川岸でとうろうの監視をしている係りの老人に声をかけた。彼によると、とうろう流しが始まったのは約10年前だという。上大岡の街づくりを目指してゆく中で、上大岡名物を作ろうと商店街の組合や町内会で決めたそうだ。今は「上大岡マスタープランの会」や「大岡川の再生をすすめる会」が主催している。半分、NPOのようなものだろうか。
取材記者よろしくいろいろと話を訊いていて、上大岡の歴史を垣間見る思いがした。そういえば、少年時代の上大岡と今現在の上大岡とでは全く世界を異にする。馬鹿でかい駅ビルが建てられるなど、いかに再開発が物凄かったか想像できる。そしてそれは今でも続いている。
それにしても老人は怪訝な顔ひとつせず気持ちよく話してくれた。この老人と話をしていなかったら、上大岡の歴史を調べたいなんて思わなかった。自分の住んでいる街である。今後の「オカズ」にしたい。
とうろう流しとは話がずれてしまったけれど、老人と話ができたことは大きな収穫であったと思う。

終戦記念日

15日、これまでの連日の暑さが嘘のように朝から寒い日であった。雨が少し降った。
精神と肉体が夏の暑さに対応しているだけに、天気の急な変わりように違和感を覚える。そして、僕の心の中は誰かの温かいぬくもりが欲しいと叫んでいた。こういうときに一人でいるときの寂しさは芯から堪える。カミさんが欲しいと何度思ったことだろう。しかし、そういう望みさえ、今現在許されていない。く〜っ。現実逃避したい気分だ。どこかへ突っ走りたくなる。
 いかに衝動を抑えるか。唐突なことを言うようだけれども、そのことが実は殺人を犯す人とそうでない人の境界線になるのではないかと考えたりする。何かに突きつけられて自分ひとりで通り魔的に人を殺すという事件は過去に何度もあった。最近では兵庫で7人もの親戚を刺殺するという事件が起きている。じわじわと熱くなってゆく水は一度沸騰したら、あとはなかなか冷めにくいものだ。佐世保の小学生殺害事件にしても、「心の闇」ということがよく言われる。だけどそんなものは実は誰しも抱えているものなのではなかろうか。
終戦記念日―。
からしめじめした気分であったが、戦死した人に慰霊を捧げるにはむしろこにような気分になった方がいいのかもしれない。本来はこの馬鹿馬鹿しき戦争が終わったことを喜ぶべきなのだろうが、戦死者を隅においてはならない。戦争は終わったが、「戦後」は終わったわけではない。これからも続くのだ。
戦争の残すつめ跡はあまりにも大きいのだということも、特に為政者は肝に命じるべきだと思う。

芥川賞

yuzai2004-08-14

★13日、仕事帰りに文藝春秋を買って、芥川賞受賞の「介護入門」を読む。約2時間30分かけて一気に読了。

主人公とその母が主人公の祖母を介護する様子を描いたもの。タップ調でテンポよく読める。所々に出てくる「YO、朋輩(ニガー)」という呼びかけ(?)が音楽を聴いているみたいで心地よい。
実体験かどうかは知らないけれども、主人公が祖母の世話をしているところが詳細に書かれていて、読者があたかも体験したような感じになる。
主人公はマリファナを常習している風であるが、介護に対する哲学は素晴らしく納得させられる。実際に介護の汗を流した者の強みがよくわかる。
主人公による現場の介護経験話に対して、「君固有の幻想ではないか?」という人がいるとする。そしてこう反論する。「二流の書物とセックスして死ね」。
「言葉だけで祖母の幸福を考える真似などしたこともない」とも言い、現実の介護に力をそそいでゆく。
机上の論理で介護を語るべからずってか。何かそういう風に感じ取れた。とにかくそういうものが全体的に強く前面に出ている。
文体はユニークだけれども、書かれていることは非常に真面目すぎるくらい真面目であり、そのギャップが面白いとも言える小説だと思った。



★14日、伊勢佐木町有隣堂にてミニトークを訊きに行く。テーマは「横浜の空襲、そして占領の街」。話し手は中部大学名誉教授の赤塚行雄氏。

聞き手は中高年ばかりであるが、30人は集まっていて、話を聞いていた。
が、赤塚氏の話がマイクを通しているにもかかわらず、僕にはよく聞き取れなかった。声が小さく、ぼそぼそ話すような感じだったからだ。前へ行ったり、集中して耳を傾けようとするものの、その努力もむなしく全然わからなった。まさか一生懸命に話されている最中に「すいません、聞こえないのですが・・・」と言うわけにもいかないだろう。
それでもまわりの他の人たちは聞こえているのか、うんうんとうなずいている。こういうときに聴覚障害を持つ者は疎外感を感じるのだ。まわりの皆がわかっているのに、自分だけわからない。だから、8/1の日記に述べたように離人感が強くなっていくのである。
これ以上、ここにいてもしょうがないと判断して退散することにした。
不発に終わった。無念である。