灰色の連鎖

8月1日の日記に関連して、自分自身の問題として、今少し具体的に述べてみたい。


▼テレビ編

<バラエティ>

最近のバラエティは字幕があるからわかりやすいが、字幕が出てこなければ、そこで発生させる音声はただの雑音でしかない。

<対談・鼎談・数人の議論>

テレビカメラが発言者の顔をアップしていれば、不完全ながらも理解できる。その点、「朝まで生テレビ」はさすが技術が優れていると思う。田原総一郎の仕切りが上手いこともある。逆に「TVタックル」は理解までゆかないことが多い。たぶん雑談っぽいところがあるからだろう。

<ニュース>

キャスターによる。でもさすがにプロのアナウンサーである。言葉の使い方がはっきりしていてわかりやすい。今はキャスターではないが、草野仁が一番わかりやすい。「報道ステーション」の、古館一郎の隣のコメンテーターはもっとコメンテーターとして勉強すべき。何を言っているのか全然わからん。

トーク番組>

雑談のようなものはお手上げ。「徹子の部屋」は、黒柳徹子が早口にもかかわらず、よく聞いていればわかる。意外にきちんとしゃべっている。

<ドラマ>

特に長いせりふは理解不能。やはりあれも通常の雑談的なものと変わらないからだろうか。視覚的な流れでストーリーを把握するしかない。

<日本語吹き替えの外国映画>

全くもって理解不能。唇の動きと合っていないので、ドラマより始末が悪い。よって全然見ていない。


▼個人(有名人)編

ビートたけし→理解不能の最右翼。何度耳を傾けてもわかった試しがない。日本語話している?
小沢一郎→一番よくわかる。政治家には珍しいタイプ。石破茂もわかりやすい。




前掲「中途失聴者と難聴者の世界」には、社会学者・宮台真司の基礎となっている、社会学者・ルーマンの話が少しだけ載っていた。
社会システム理論によると、後続のコミュニケーションは先述のコミュニケーションのありかたによって決まるそうである。
中途失聴者と難聴者の世界」の著者は、断片的な情報しか受け取れない中失・難聴者のコミュニケーションは、理解の歪みから予期せぬ方向に流れていきがちであると述べる。
自分の身に置いてみると、上記のようなテレビからの情報もまた断片的なのだ。そうすると、その理解の歪みがまた理解の歪みにつながっていくという悪循環になる。
最近、職場でも人間関係を築く上でもきつくなってきている(昔からそうだけれど)。ある物事に対する自分の理解が、後になって実は間違って理解されていたということが出てくることがある。普通なら中堅社員としてあってはならないことであるが、障害を持っている自分でも精神的にダメージがのしかかってくる。
ちょっと恐い。自分の将来が不安になってきた。今のうちに対策を考えておかねばならない。