聞こえないということ

昨日31日のの「朝生」は「日本のプロ野球が滅亡する?!」というテーマ。「朝生」がこのようなエンターテイメント系をテーマにすることは珍しく、驚いてしまった。しかもヤクルトの古田まで出ていたから二重の驚きである。
しかしながら、仕事で疲れていたこともあって、さすがに最後まで見ることができず、眠ってしまった。無念。
ただ、専門家ではないヨネスケの意見は的を得ていたものが多かったと思う。やはり何か議論をするときはそのテーマについて専門でない者の意見はときとして貴重である。
あと、ライブドアの社長の「自分はサラリーマン社長ではない」という話にちょっと頭にきた。その態度が偉そうな感じに取れた。横から経済産業研究所の広瀬氏が笑顔で「諭していた」場面が印象的だった。


閑話休題


前掲「中途失聴者と難聴者の世界」について。
この本で、難聴者とはどういう存在なのかが再確認できた。もやもやしていたものがまとまった。自分自身の声を代弁するものであり、その意味で画期的であった。
以下、本書より簡潔に抜粋。


<コミュニケーション不全が引き起こす問題>

◎健聴者から発信されたメッセージを解読して理解することに、絶えず困難が伴う。

◎中失・難聴者は「どうでもいいような話」がわからない状態のままに置かれているために、その場の感情の共有、経験の共有などができなくっている。

◎健聴者は1対1である程度のコミュニケーションが可能なら、集団においてもできるはずだと考えるはずであるが、これは大変な誤解である。

◎性格が温和で優しく、何度聞き返しても嫌な顔をせずに話してくれるような人であれば、こちらもコミュニケーションを交わすのが楽になる。逆に、いらだったような雰囲気を漂わせている人とは最初から話をしたくないという気持ちになる。


<中失・難聴者に起こりがちな反応や行動>

◎物事をあいまいなまま受けれてしまう

◎状況にマッチした適切な行動が取れない

◎健聴者に敵意や反感を感じるようになる

◎自分らしさが失われ、健聴者を避けるようになる


<多様な見えなさにつきまとわれる中失・難聴者>

◎健聴者から「耳が悪いといっても、普通の人と変わらないように見えますよ」と言われ、障害者でないかのようにみなされる


<中失・難聴者と精神的危機>

◎状況意味失認状態に置かれる
 例)パーティのような、集団で自由な音声コミュニケーションが行なわれる場で、疎外感を感じること

◎自明性の喪失に苦しむ
 例)自然な会話が成立しにくいため、もはや健聴者と対等ではないという現実が突きつけられ、他の人た ちも同じだということが感じられなくなること

◎現実との生ける接触が失われる
→コミュニケーションが困難なため、必然的に環境に対して積極的に関わっていこうとする同調性よりも、環境から距離を置いて関わろうとする分裂性のほうが優位になりやすいということ。

 例)健聴者集団の中で、会話についてゆけずに、離人感(疎外感ではなく)を感じること
     ↑
   つまり、凛として離れているのが当然と感じること。今、ここで起きていることとは関係が無い、他人事なんだと感じること



以上が抜粋であり、その他にもよくまとまっているものがあるのだが、ここまでにしておく。

特に「精神的危機」の部分、聴覚障害を持つということは、いかにその人の心理に影響を与えるか、というのがよくわかる。このために、精神的な病気に罹患しやすい障害とも言える。実際にうつ病などにかかった知人もいる。
しかし僕はここではっきりと言いたい。聴覚障害は本来は「聞こえない」というだけの障害なのだ。それは必然的にコミュニケーション障害となるが、それを除けば、普通の人間と同じようにアイデンティティやパーソナリティには何ら問題はないはずである。
上記の部分とて、他の聞こえる人間がサポートしていれば、基本的には喪失感や離人感に苦しむこともない。それがあまりに継続的かつ強度だったりするから、アイデンティティやパーソナリティが崩壊してしまうということにもなり、精神的な病をきたしてしまうことになるわけで、要は健聴者の支援の問題なのだ。
聞こえないからといって、その人間を先入観で判断することは避けて欲しいものだ。
むろん喪失感や離人感に苦しみ、果ては精神病に行き着いてしまうという恐れがあるから、「変な人間」と見なされがちであることもあえて否定はしない。
ここは難しい問題である。
人間は他の人間と共生しなければならないという宿命を持っている。そして障害者は必要以上に他の人間の支援を必要とする。もし、全く一人で生きていくことが可能ならば、このような問題に苦しむことはないのだろう。